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「三栗の」:栗の歴史の話

こんにちは。コロナウイルスが大変な時期ですがいかがおすごしでしょうか。

花粉症がツライ組合員28号です。

今年も栗の木の枝を切る作業「剪定」を行っています。

今回は栗と古代の人とのお話でも。

日本において栗は縄文時代から食されていて、古代の遺跡からも当時の栗が出土しています。よく土に還らなかったなと思いますが炭化していたものだそうです。最も古いもので12,000年以上前のものがあり、他にも栽培や保存の形跡がある栗も実あるそうで、大変昔から日本人の祖先は栗を育て、保管し、食べてきたのですね。

また、栗が文献に登場するのも大変早く、古事記・日本書紀・常陸国風土記・万葉集などですでに栗という言葉や文字が登場します。

日本書紀では持統天皇が詔(ミコトノリ=天皇の発する命令)として、役人が民に栽培を奨励する草木の1つに栗を挙げています。また、現在の茨城県の古代の様子を記した常陸国風土記には「雄栗の村」という古代の地名が登場します。

古事記・万葉集には和歌の枕詞として登場します。今回はそのうちの一つをご紹介します。

 「たのしい万葉集」様(https://art-tags.net/manyo/)より抜粋

古事記・万葉集ともに、「中」という言葉を導く枕詞として「三栗の」という言葉が多く使われており、「栗の実は毬の中に3つ入っているのが普通」という知識が一般に(少なくとも歌人には)常識として通用していたんですね。

万葉集は成立が西暦700年代ですので、1300年後には毬の中に1つしか入ってない栗もありますよ。と教えたいところですが、

この高橋虫麻呂さんの歌では「中」を転じて「那珂」という地名を導いています。この「那珂」は常陸国那珂郡であり、現在の水戸市から那珂市、常陸大宮市あたりのことです。私たちが飯沼栗を栽培している茨城町はお隣の常陸国茨城郡ですので何だか親近感の湧く歌ですね。

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